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「水を差してくれる人」周りにいますか?|国民文化と空気の研究

2018.08.25 渡辺 寧

大統領を笑いのネタにする

ホワイトハウス記者晩餐会(White House Correspondents’ Dinner)は1921年からワシントンDCで4月の最終土曜日に、ホワイトハウスと大統領担当記者と、またその他の著名人を招いて行われているイベントです。

1983年以降はコメディアンがスピーカーとして招かれ、大統領と政権のネタに皮肉の効いたスピーチをするようになったそうです。

最近、トランプ大統領欠席の中行われた2017年の晩餐会でのハッサン・ミナージュのスピーチが、ソーシャルメディアでも拡散されていたので、ご覧になった方もいらっしゃるかもしれません。

大統領のいない夕食会で・・・

※再掲載 計110万再生突破【タテガタ】ホワイトハウス記者会が大統領を招く恒例の夕食会。通常、大統領がウィットに富んだスピーチをするのだが、今年トランプ大統領は欠席。メディアとの対立姿勢の一環とみられている。そこで大統領の替わりに登壇したのはイスラム教徒のコメディアンハッサン・ミナージュ氏。風刺の効いたギャグを連発した・・・

TBS NEWSさんの投稿 2017年5月21日日曜日

(出展「大統領のいない夕食会で・・・」TBS NEWS)

2018年も引き続きトランプ大統領は晩餐会を欠席し、代わりにミシガン州のワシントンで支持者集会を開催し、「私は今夜、ほかのイベントに招待されていたが、ワシントンDCよりもミシガン州のワシントンにいる方が好きだ」と述べて、国民との近さをアピールする形になったそうです。(出展「伝統のホワイトハウス記者晩餐会、トランプ氏「大惨事」」朝日新聞デジタル)

記者晩餐会のスピーチは、様々なアメリカの文脈が分かっていないとどこが笑いのポイントなのかわからないものも多いのですが、大統領や政権メンバーを1人1人実名で取り上げ、笑いのネタにする様子は、個人的には凄いなと思いますが、同時に冷や冷やもします。

ネタにされている当人が憮然とした表情になるのを見ると、ここまで言ってしまってよいのだろうか?という感覚がわいてきます。2018年のスピーカーのミッシェル・ウルフは、ホワイトハウスのサンダース報道官について、

“She burns facts, and then she uses that ash to create a perfect smokey eye.(彼女は事実を燃やして、その灰で完璧なアイシャドーをしている)”

といってひんしゅくを買ったそうです。(出展 同上)

(出展 “Michelle Wolf performs stand-up routine at White House Correspondent’s dinner” abcNEWS)

映像の14分30秒から、その様子が映っていますが、それを聞いたサンダース報道官の表情が印象的です。

権力格差が低いと、人々は権力者に率直に意見する

大勢の人とカメラの前で、ジョークと個人攻撃の境界線を攻めるコメディアンは凄いなと思いますが、多くの政界人や企業重鎮の気分を害しているであろう、この行事を継続的に行っているアメリカという国は、日本とはかなり違う文化なのだなということも良くわかります。

社会には権力を持つ人と、権力を持たない人がいます。この権力格差を人々がどう捉えるか、は文化によって異なります。つまり「権力を持つ人が上に居るのは必要なことであり、権力者には敬意を払い従うべきだ」と感じるか、もしくは「権力は便宜的に設定されているだけであって、権力を持つ人と持たない人は同等であるべきだ」と感じるか、は文化によって差があるということです。

ホフステードの6次元スコアでは、これは「権力格差(PDI)」の差として表現されます。

図1 アメリカ合衆国の権力格差(Power Distance)と個人主義・集団主義(Individualism)スコア
(出展  Hofstede Insights Group)

アメリカの「権力格差(PDI)」のスコアは40です。これは、アメリカが権力格差の低い文化に属することを示しています。アメリカは同時に、非常に強い個人主義の国でもあるので(個人主義・集団主義(IDV)スコアが91)、個人が権力者に対して率直な批判を行うことは自然なことと捉えられます。

この文化傾向は、合衆国憲法修正第1条で明記されている表現の自由とも合致しています。

日本文化は権力者への批判に寛容か?

大統領さえも笑いのネタにすることが許されるアメリカ文化と比較すると、日本文化はどのような特徴を持っているのでしょうか?

日本で、権力を持っている人をその人の面前でネタにすることは、アメリカに比べるとはるかにハードルが高いように思います。飲み会などの非公式な場で偉い人の悪口を言うことは良くありますが、公衆の面前で本人に面と向かって言うのはためらわれる。

このことは、ホフステードの6次元スコアでも出ています。

図2 日本の権力格差(Power Distance)と個人主義・集団主義(Individualism)スコア
(出展  Hofstede Insights Group)

日本の権力格差(PDI)のスコアは54です。これは、日本が中間帯ながら若干権力格差が高い文化であることを示しています。日本は、個人主義文化でもない(個人主義・集団主義(IDV)スコアが46)ので、公衆の面前で権力者批判に取られるネタを行うことは自然なこととは捉えられません。文化的にはアメリカと比べると日本は権力者への批判に対しては寛容でないと言えます。

「空気」が支配する社会

山本七平は著書「「空気」の研究」の中で、日本では、

議論における言葉の交換それ自体が一種の「空気」を醸成していき、最終的にはその「空気」が決断の基準となるという形をとっている場合が多い

と述べています。

確かに、日本では批判的な議論をするべき所で、何やらどうにもならない「空気」が漂い始めることがあります。こういう空気が漂い始めると、一人、また一人と沈黙をし始めるので、最終的には誰も何も言えない「空気」が作り上げられます。

日本文化は権力格差が低いわけではなく、個人主義でもないので、個人が状況や権力に抗って情理を尽くして個人の見解を熱弁する文化ではありません。よって、容易に「空気」が発生し、それは時として間違った意思決定に繋がっていきます。

「水を差す」人は大切

この空気の支配は、先の大戦の際に見られたように、しばしば破滅的で悲劇的な結果に結びつくことがあるため、山本は、伝統的に日本では「水を差す」ことが大切とされてきたと述べています。

「そうは言っても金がねえなあ」というような、最も具体的な目の前の障害が「水」になることが多かったようですが、それが言及されるとたちまちにして「空気」が崩れ、空気の支配が中和される効果がありました。

日本の場合、権力の無い個人が自由に批判を繰り広げることが自然とは思われません。よって、国の中に限らず、組織の中でも容易におかしな「空気」が発生しやすい文化的土壌を持っていると感じます。

そんな中、水を差してくれる人はとても大切です。水を差す人が居ると、場合によっては、決まりかけていた話を巻き戻すことになったり、高揚していた気分に冷や水をかけられた気分になるかもしれません。しかし、空気が必ずしも望ましい結果を生まない以上、この空気の支配を構造的に避ける仕掛けを持っておくことは大切です。

ヨーロッパ中世の宮廷道化師は君主に対して無礼なことでも自由に言える唯一の立場にあり、行政と民の中立な立場で世間の風評を演技(表現:意見)する等、オンブズマン(Ombudsman)としての役割も果たしていた(出所 wikipedia)と言われています。

山本は、

大人とはおそらく、ものごとの解決は、対象の相対化によって、対象から自己を自由にすることだと、知っている人間のことであろう

と述べています。

周囲に「水をさしてくれる」人に居てもらうことによって、一旦対象から離れて、相対化したうえで状況を見直すことは、日本の組織にとってはとても大切なことです。嫌なこと言うなあ、と思う存在でも、「水を差してくれる人」は大切なのです。


WRITER

渡辺 寧

Hofstede Insights Japan 取締役
シニアファシリテーター

慶応義塾大学文学部/政策・メディア研究科卒業後、ソニー株式会社に入社。7年に渡り国内/海外マーケティングに従事。約3年の英国赴任を経てボストン・コンサルティング・グループに入社。メーカー、公共サービス、金融など、幅広い業界のプロジェクトに4年間従事。2014年に独立。プライベートではアシュタンガヨガに取り組み、ヨガインストラクターでもある。

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