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他力本願 vs. 自己責任:どっちの方が力が湧いてくる? – 歩きながら考える vol.39

2025.05.12 渡邉 寧
「歩きながら考える」

今日のテーマは、京都の西本願寺で見た「誰もが、ただ、いていい場所」という看板について思ったこと。このシリーズでは、筆者が街を歩きながら、日々の気付きや研究テーマについてのアイデアを語っていきます。ふとしたタイミングで浮かんだアイデアや、知的好奇心をくすぐる話題を平日(月~金)の毎朝ラジオ感覚でお届けしています。散歩中のちょっとした思いつきを、ぜひ一緒に味わってみてください。

こんにちは! 今日もオフィスに向かう移動時間を使って、ちょっと考えごとをシェアしようと思います。もうすぐ着くんですけど、その前に、最近の散歩中にふとハッとしたことの話をしたいなと。テーマは「他力本願」。そう、浄土真宗のあの教えです。金曜の夜、西本願寺の前を通ったら「誰もが、ただ、いていい場所」って看板があって、なんかグッときたんですよね。頑張るのが当たり前の社会で、他力本願が教えてくれる生き方って何だろう? 特に、自己責任論と比べると、めっちゃ面白い対比になるんです。歩きながら考えてみます。

西本願寺の看板に目が止まった

きっかけは、金曜の夜の散歩。京都の西本願寺、正式には龍谷山本願寺の前を通ったとき、ふと目に入った看板。「誰もが、ただ、いていい場所 — A Place Where You Belong」。看板の写真も撮ってみました!


この言葉、めっちゃ深いなって思ったんです。浄土真宗本願寺派の本山だから、きっと「他力本願」の教えが込められてるんだろうなと。で、歩きながら考えてたら、他力本願って、現代の「全部自分で頑張らなきゃ」っていう空気と真逆で、なんか自由な感じがするなって。

浄土真宗って、親鸞が開いた仏教の宗派で、阿弥陀仏の本願にすべてを委ねる「絶対他力」が中心。阿弥陀仏の本願とは、「たとえ十念であっても、もし私の名を称える衆生が私の国に生まれないならば、私は正覚を取らない」という阿弥陀仏の誓約のことです。阿弥陀様は衆生を救済される、と決心されたわけです。

自分で頑張って救われる(自力)じゃなくて、阿弥陀仏の力(他力)を信頼する考え方。念仏を唱えるのも、救われるための努力じゃなくて、感謝を表すもの、と考えられる。大切なのは、自分の限界を素直に認めて、阿弥陀仏を心から信頼すること。これ、めっちゃ大胆な価値観じゃないですか? 特に、2025年の今、「自己責任が当たり前でしょ」って空気と比べると、なんか新鮮ですよね。

自己責任論 vs 絶対他力

今の社会、ほんと「自己責任論」が強いですよね。仕事でミスしたり、キャリアが停滞したりしたら、「自分の努力が足りないんじゃない?」と考える。

まあ、個人的には、自己責任って自然な考え方だなと思うんです。特に日常生活や仕事の場面においては。

というのも、「他責」は次に繋がらないように感じるから。「周りのせいにしてもしょうがない。自分でできることに集中して、やってみよう」って思うのは、自然な態度に感じます。「あの人が悪い」「環境が悪い」って他人のせいにするのは、なんか違和感があるんですよね。

この自己責任論、アメリカだと割と主流の考え方だと思うんですね。特に、リバタリアニズムにめっちゃ色濃く出てるんですよ。リバタリアンって、個人の自由と自己責任をめっちゃ重視する考え方。アイン・ランドの小説、たとえば『肩をすくめるアトラス』とか読むと、めっちゃ分かりやすいんですけど、個人の努力と才能で成功を勝ち取ることを価値だと考えます。

オランダの社会心理学者/経営学者であるホフステードの文化次元理論で見ると、リバタリアニズムの価値観には「個人主義」と「男性性」の強さを感じます。ちなみに、国のスコアでいうと、アメリカは個人主義スコア91、男性性スコア62なので、アメリカではアイン・ランド的な価値観は受け入れられやすいのかもしれませんね。

で、ここで浄土真宗の「他力本願」の考え方。これは、アイン・ランド的な価値観とは全然違うように見えますね。真逆なんじゃないでしょうか。ホフステードの観点で見ると、他力本願は阿弥陀仏や共同体に信頼する「集団主義」に近いし、「たとえ、わずか十声の念仏」しか唱えていないとしても、そういう人でも阿弥陀仏は救おうとしている(阿弥陀の本願)という捉え方は、もしかしたら「女性性」の価値観の方が近いのかもしれません。

他力本願で、自然体の自分の力が出る

で、ここからは、先週、「誰もが、ただ、いていい場所」という西本願寺の看板を見て、僕が感じたこと。

他力本願って、ただ「頑張らなくていい」って話じゃないと思うんですよね。自分の限界を認めて、超常的な他の存在を心から信頼することの重要性を説いているように思うわけです。そうすることで、自然体の自分として生きられるということを伝えているのではないか、と。なぜなら、そうすることによって、不思議なことに、頑張ってないのに自然に力が湧いてくる。無理に自分を変えようとか、すごい自分になろうとしないのに、備わっていた力が出てくるというか。

浄土真宗だと「自然法爾(じねんほうに)」という考え方があるそうです。人間の作為を越えて、事物のあるがままの姿、つまり法則に則った本来の姿であることという意味で、特に浄土真宗では、自力行を捨て、他力(如来の力)に任せることを指すそうです。

これ、「力が湧いてくる方法」に関する文化による違いなのかもしれません。

個人の自由と可能性を心から信頼することで、力が湧いてくるのが、アイン・ランド的なリバタリアンの価値観とすると、個人の限界を認識し、超常的な他の存在(阿弥陀仏)の願い(本願)を心から信頼することで、力が湧いてくるのが「絶対他力」の価値観なのではないか、と思います。

まとめ

というわけで、今日は西本願寺の看板から始まって、浄土真宗の他力本願とリバタリアンの自己責任論の対比、自然に力が湧いてくるアプローチまで、歩きながら考えてみました。2025年の今、自己責任が当たり前の空気の中で、「自分の限界を認めて、信頼して、自然に動く」っていう考え方、なんか心に響くと思いません?

もしこの話が面白いと思ったら、ぜひSNSでシェアしてくれると嬉しいです。自分も他力本願の考え方をもっと詳しく調べてみたいと思います。

最後まで読んでくれて、ありがとうございます。オフィス着いたんで、今日はこの辺で。また次回の「歩きながら考える」で会いましょう!


渡邉 寧

博士(人間・環境学)
代表取締役
シニアファシリテーター

慶応義塾大学文学部/政策・メディア研究科卒業後、ソニー株式会社に入社。7年に渡り国内/海外マーケティングに従事。約3年の英国赴任を経てボストン・コンサルティング・グループに入社。メーカー、公共サービス、金融など、幅広い業界のプロジェクトに4年間従事。2014年に独立。2025年に京都大学大学院人間・環境学研究科にて博士号取得。専門は文化心理学、組織行動。最近の研究テーマはAIの社会実装 × 職場の幸福感 × 文化の違い

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