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失敗を認める姿勢から見える日本人の古典的「自分」感覚 – 歩きながら考える vol.110
今日のテーマは、昔の日本の「自分」とはどのようなもので、それがどのような強さに繋がっていたのかということについて。このシリーズでは、筆者が街を歩きながら、日々の気付きや研究テーマについてのアイデアを語っていきます。ふとしたタイミングで浮かんだアイデアや、知的好奇心をくすぐる話題をラジオ感覚でお届けしています。
*文化以外のテーマも含むシリーズ全編は、筆者の個人のページでご覧いただけます。
こんにちは。今日は家に帰りながら、先週末に観戦したサッカーの試合から考えたことを話してみようと思います。京都サンガ対東京ヴェルディの試合で、ある若手選手のプレーとその後のインタビュー、さらに本人の生い立ちを含めたストーリーを見て、日本の文化について思うところがあったんです。それについて、歩きながら、ゆるく話してみようと思います。
背番号71番の若き挑戦者が見せた率直さ
8月16日、亀岡のサンガスタジアムで行われた試合。東京ヴェルディの平尾勇人選手という日本大学3年生の特別指定選手が後半から出場したんです。背番号は71番。ちょっと珍しい番号ですよね。
試合は京都サンガが1-0で勝利。その失点シーンに絡んだのが、この平尾選手でした。京都の原大智選手のキックフェイントに綺麗に引っかかって、クロスを許してしまい、最終的にラファエル・エリアスのゴールにつながった。
でも、驚いたのは試合後のインタビューなんです。平尾選手、こう言ったんですよ。
「あの失点シーンのクロスは、僕ではなかったらあんなふうに簡単にクロスを上げさせていなかっただろう。今日の負けは自分の責任だと思っている」
大学3年生、プロの世界にデビューしたばかりの選手が、ここまで率直に自分の失敗を認める。このコメントの明確さに、ちょっと違和感というか、興味深いものを感じたんです。
なぜこんなにも率直に自分の失敗を語れるのか。その背景を知ったとき、さらに深く考えさせられることになりました。
背番号71番に隠された、亡き弟への思い
実は、この71番という背番号には深い意味があったんです。
記事によると、平尾選手が11歳の時、3歳年下の弟さんを急性リンパ性白血病で亡くしているそうです。その弟さんの誕生日が7月10日。だから71番。そして、弟さんの命日は平尾選手本人の誕生日(1月6日)でもあるという。
これを知った時、なんかこれって「人生のバトンを渡された」ように見えるなって、僕は感じたんです。亡くなった弟の思いも背負いながらサッカー人生を送る。そんな重い決意を、背番号に込めているんじゃないかって。
この背景を知ると、あの率直なインタビューも違った意味を持ってくるような気がしたんです。ちょっと文化心理学の観点から考えてみます。
文化的規範を超えた、明確な自己責任の認め方
文化心理学では、Markus & Kitayama (1991)が提唱した「相互協調的自己観」と「相互独立的自己観」という概念があります。
西欧文化では、自己と他者は独立した存在として認識される「相互独立的自己観」が主流。一方、日本を含む東アジア文化では、自己と他者の境界線が曖昧な「相互協調的自己観」が優勢とされています。
日本の場合、相互協調的自己観が優勢なため、そのように振る舞うことが社会的な規範として成立しているところがあって、人前でのコメントは自己を前面に出すというよりは、他者に対する配慮とか感謝を述べるのが一般的と言われています。
それに従ってみると、平尾選手の自分の責任を認めるコメントというのも、文化的規範に従っていると言えるのかもしれません。
ただ一方で、文化的規範で求められるからそういった自分の失敗を認めた、とだけでは言い切れないような明確な認め方の中に、ちょっと違ったものを感じたんです。あまり明確に自分の非を認めすぎると、集団の中での面子を失ってしまいますので。そのあたりはうまい塩梅に表現するのが一般的だと思います。
「違ったもの」が何かというと、それは、彼の中では自分という存在が、単純に一人の個人として完結していないんじゃないか。もっと言えば、「拡張された自己」とでも呼べるようなものがあるんじゃないか、ということです。
拡張された自己がもたらす古典的な強さ
「拡張された自己」って、どういうことか。
たとえ今ここで自分が恥をかいたとしても、自分の中に生き続けている弟の悔しさと比べればなんてことはない。そんなことよりも、弟ができなかったことを自分はやらなきゃいけないんだ。そういう感覚。つまり、常に「自分が」ということを考えるときに、自分以外の誰かの話が意識の中に上ってくる。これが「拡張された自己」ということなんじゃないでしょうか。
こう考えていくと、実はこれって新しい強さの形ではなくて、もっと古典的な強さの形なのかもしれないと思い至りました。
現代の日本は個人主義化していく中で、自己観に関しても相互独立的な自己観、つまり自分と他者は違う存在だと感じる方が普通になっているんじゃないかと思うんです。
でも、我々よりちょっと上の世代、例えば戦争を経験し戦場に行った世代の話を聞いていると、戦地で戦死した仲間がその人の意識の中に強くあるように思う時があります。何かをしたいとか、何かをしなければならないと考える時に、自分がどうしたいかという話に加えて、自分の中にいる戦死した戦友はどうしたかったのか、というような意識があって、それがその人の強さにつながっていたように見えるところがある。
集団主義的であるとか、相互協調的自己観の方がより伝統的な古い日本の人の自己観だとすると、自分の中に他者を入れることによって自己の強さを確保していくというのが、日本の人にとっては当たり前だった時代があるのかもしれない。
一方で、それが戦後の個人主義化していく中で失われている部分が、もしかしたらあるのかもしれません。平尾選手のような若い世代に、まだその片鱗が見えることがあるというのは、なんだか興味深いことだなと思うんです。
まとめ
というわけで、今日は背番号71番の若手選手から、日本人の自己観について考えてみました。亡くなった人の思いも含めて自分を捉える「拡張された自己観」。それは、実は日本人が持っていた古典的な強さの形なのかもしれません。
現代社会が個人主義化していく中で、こういった自己観は薄れつつあるのかもしれませんが、時折、こうした形で現れることがある。失敗を認める勇気の背後に、実は深い文化的な背景があるのかもしれない。そんなことを考えさせられた試合観戦でした。
もしこの話に何か感じるところがあったら、ぜひSNSでシェアして、みなさんの考えも聞かせてください。自分の中に他者を入れること、それが強さにつながること。みんなはどう思いますか?
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。家に着いたので、今日はこの辺で。また次回の「歩きながら考える」でお会いしましょう!

渡邉 寧
博士(人間・環境学)
代表取締役
シニアファシリテーター
慶応義塾大学文学部/政策・メディア研究科卒業後、ソニー株式会社に入社。7年に渡り国内/海外マーケティングに従事。約3年の英国赴任を経てボストン・コンサルティング・グループに入社。メーカー、公共サービス、金融など、幅広い業界のプロジェクトに4年間従事。2014年に独立。2025年に京都大学大学院人間・環境学研究科にて博士号取得。専門は文化心理学、組織行動。最近の研究テーマはAIの社会実装 × 職場の幸福感 × 文化の違い