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映画を通じてお互いのズレを知る
「円卓シネマ」という異文化理解の取り組みがあります。
異なる文化を持った人々が同じ映画を見て対話することで、無意識のうちに生ずるお互いの生活感覚レベルのズレを意識化しようとする試みです。それをきっかけとして自他を再認識しコミュニケーションに新しい展開を生み出すことを目的としています。
全国各地でこの円卓シネマの試みがなされていますが、山本と姜(2011)が行った、早稲田大学と北京師範大学の学生を対象にした取り組みが非常に興味深いんですね。今回は、このお二人の研究を手がかりにして、日中の価値観の違いを探っていきたいと思います。
この円卓シネマでは、チャン・イーモウの映画「あの子を探して」が題材として使われました。それぞれの学生が映画を見て、まず日中それぞれの学生の間で議論を行い、その内容を基に日中相互の学生が対話を行っています。
「あの子を探して」という映画
映画「あの子を探して」は、「紅いコーリャン」等で知られる中国のチャン・イーモウ監督の作品です。この映画で、チャン・イーモウはベネチア映画祭で2度目のグランプリを受賞しています。
(あらすじ)
「あの子を探して」の舞台は中国の農村の小学校です。母親の看病のため1ヶ月学校を離れなければならなくなったカオ先生に代わって、村長に連れてこられたのが13歳のウェイ・ミンジー。中学校も出ていないミンジ―は突然28人の子供を受け持つことになります。到底まとまらない小学校のクラス。そんな中、一番やんちゃだった少年のホエク―がある朝学校に来ません。ホエク―は貧乏な家庭の子供で、病気の親に代わって街に出稼ぎに行ってしまったのでした。ホエク―を探しに街に出たミンジ―でしたが、なかなかホエク―を見つけることができません。困り果てたみミンジ―は思い切った行動に出ます・・・
90年代末に作られた映画で、農村を舞台としており、上海や北京などの大都市しか知らない日本人が観ると、今の中国とは全く異なる生活教育環境に驚き、興味をそそられます。
しかし、より興味深いのは同じ映画に関して感想を語り合う、日本と中国の学生の映画の見方が驚くほど異なっているという点です。
日中で異なるお金に対する価値観の差
日本人がこの映画を見ると、まず目に付くのが「お金のやりとり」です。
冒頭のシーンで、代用教員として村に来たミンジ―は給料の50元をきちんと払うようにとカオ先生に迫り、カオ先生はそれを村長に「押し付け」ます。村長は金はないので後で払うと口約束をします。
別の場面では、街に行ってしまったホエク―を探し出すために、ミンジ―は残った生徒に持っているお金を全部出すように言います。それでも足りないとなると、ミンジ―は生徒に家から一人5角づつ来るようにと指示します。
こうしたやり取りは日本ではあまり見ることがなく、学校でこんなことを先生が生徒に言ったら大問題になるだろうという感覚さえ抱かせます。
このことは、映画を見た早稲田大学の日本人学生たちも感じたようで、
「そこすごい衝撃でした」
「許されないじゃない」
といったコメントが出ています。
一方で、同じ映画を見た北京師範大学の学生には、こうしたお金のやり取りはさほど重要なものとしては写っていません。むしろ、この映画を見てどうして日本人学生がそこまでお金についてのお話を持ち出すのかが理解できないと言います。
中国人学生は、
「13歳の子供のやることだし、状況を考えれば理解できる」
と言い、
「生活の中ではいろんなことがお金から始まっているけど、最後には段々と周囲の人や出来事がみんな人を変えていって、その中にすごくたくさん愛情が加わって、それで徐々に最初のああいう私利の目的から離れていく。そういうの中国人の本性じゃない?中国人は「性は本善なり」でしょう((笑))」
と言います。
何を「図」として観て、何を「地」として観るか
このお金に対する日中の学生の考え方の差は、山本と姜も検証を行なっています。
ゲシュタルト心理学に「図と地」という考え方があります。視野に二つの領域が存在する時、一方の領域には形だけが見え、もう一方の領域は背景となります。この形の部分を「図」と言い、背景の部分を「地」と言います。(*図の「ルビンの壺」で顔を見るか壺をみるか、ということ)
映画の中で、お金と情という二つのものが描かれているわけですが、日本人学生にとっては「お金」が前面に出てきて「図」として見え、「情」は背景として後方に位置します。一方で、中国人学生にとっては「情」が前面に出てきており「図」として見えているわけで、「お金」背景として後方に位置します。
そのため、中国人学生からすると日本人学生がどうして背景にしか過ぎない「お金」にそれほど固執するのかがわからないわけです。
集団主義か個人主義か
この現象を、ホフステードの異文化理解の観点から考えると、そこには日本と中国で異なる集団主義と個人主義(Individualism)の文化差があることが見てとれます。
中国の集団主義・個人主義スコアは20です。これは中国が集団主義の文化傾向を持っていることを示しています。集団主義の文化においては人間関係が非常に重視されます。そして所属する家族や集団に対する責任が強く意識されます。そのため、集団主義の観点から映画を観ると、前面に出てくるのは、村で暮らす人々の情を通じた繋がりであり、ミンジ―のホエイ―に対する心配や思いになるわけです。
一方で日本の集団主義・個人主義スコアは46です。これは日本が中国に比べると個人主義の文化傾向を持っていることを示しています。(*日本文化自体は個人主義の文化とは言えませんが、中国との相対比較においては個人主義になる)
個人主義の文化においては、個人は自分自身への責任を持っていると考えられます。個人と個人は分断されておりそれぞれの責任を持つ主体であると考えられます。個人主義の観点から映画を見ると、前面に出てくるのは、個人と個人のやりとりです。
この映画の場合、そのやり取りの多くの場面で「お金」が介在するので、ほとんど日常生活で見ることのない先生が生徒からお金を徴収する場面(=カツアゲに見える)を観た日本人学生は、異様な感覚を抱きお金の存在を前面に感じ取るわけです。
これは、どちらの見方が正しい正しくない、という話ではなく、ただ単に同じものを見たときに何を前面の「図」としてみて、何を背景の「地」としてみるのかという文化の傾向に基づく認識の差の話です。「ルビンの壺」の絵で、壺をみるか向き合った人の顔をみるか、という話に近いと思います。
文化の差は良い・悪いの評価につながりがち
しかしながら、こうした感じ方の差は往々にして相手の見方の否定につながっていきます。映画を見た後の日本の学生たちは、あまりにも露骨にお金の話が前面に出てくるので、これを、
「奥ゆかしい日本人」と「露骨な中国人」
という枠組みで当初は理解をします。
また、「情」を前面に見て「お金」を背景にある些細なこととみる中国人は、日本人の反応が理解できません。
そして、相手の日本人学生が、という文脈の話ではありませんが、「お金に執着する」ような態度は、
「人格的に優れた人の取るべき反応ではない」
と考えます。
こうした異なる文化に対する良い悪いの評価は、人が異文化環境に置かれた時にほぼ確実に行なってしまう無意識の行為です。そして、異文化環境におけるビジネスの推進に大きな足かせとなることがあります。無意識であるがゆえに全く悪気はないのだけれど、気づかないところで一方的な評価を下しがちで、またこちらの行動や言動は相手から一方的な評価を下されている可能性があります。
異文化理解を促進させる視座としてホフステードの6次元モデルを使う
異なる文化的背景を持つ人が、自分と異なるどのようなものの見方をしているのかを知ることは大変難しいわけですが、それをすることによってより効果的に多国籍間でのビジネスを推進することができるようになります。
そのためには、自分がどういうものの見方をしており、相手のモノの見方はそれと同じなのか違うのかということを常に相対化して把握していくことが必要になります。ホフステードの6次元モデルは、そうした総体的なものの見方を可能にする非常に有効なツールです。
映画「あの子を探して」の中には、上で述べた集団主義・個人主義の違い以外にも、権力格差の違い(ミンジ―は最終的にテレビ局の局長に会うことによってホエク―を見つけます)や、不確実性の回避の違い(日本人学生はホエク―を見つける過程や道筋にも良し悪しを感じますが、中国人学生は「最終的に見つかったんだからいいじゃない」と過程や道筋は重視しません)など、異なる文化差から来る認識の違いを見てとることができます。
ご興味のある方は、是非映画を観てみてください。また、山本と姜(2011)の研究の考察は文化的なズレを扱うことの難しさと面白さを感じることが出来る非常に興味深いものだと感じます。
文献
山本登志哉・姜英敏(2011)「ズレの展開としての文化間対話」-ディスコミュニケーションの心理学 ズレを生きる私たち(第1章)山本登志哉 高木光太郎編 東京大学出版会
渡辺 寧
代表取締役
シニアファシリテーター
慶応義塾大学文学部/政策・メディア研究科卒業後、ソニー株式会社に入社。7年に渡り国内/海外マーケティングに従事。約3年の英国赴任を経てボストン・コンサルティング・グループに入社。メーカー、公共サービス、金融など、幅広い業界のプロジェクトに4年間従事。2014年に独立。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程在籍。プライベートではアシュタンガヨガに取り組み、ヨガインストラクターでもある。