The Culture Factor

お問い合わせ

メールマガジン
登録

BLOGブログ

茶道、やろうかなって思った話 – 歩きながら考える vol.145

2025.10.10 渡邉 寧

今日のテーマは、孤立主義化する日本社会で「道」が果たす役割について。このシリーズでは、筆者が街を歩きながら、日々の気付きや研究テーマについてのアイデアを語っていきます。ふとしたタイミングで浮かんだアイデアや、知的好奇心をくすぐる話題をラジオ感覚でお届けしています。散歩中のちょっとした思いつきを、ぜひ一緒に味わってみてください。
(*文化以外のテーマを含む全てのブログは筆者の個人Webサイトで読むことが出来ます)

こんにちは。今日は家に帰りながら、ちょっと考えさせられることがあったので、シェアしようと思います。昨日、たまに行く料理屋でホテルのコンシェルジェをされてる方とお話ししてて、そこから日本社会の根深い問題と、その意外な解決策について考えちゃったんですよね。歩きながら、ゆるく話してみます。

飲み屋での偶然の出会い:茶道の本当の意味

昨日ですね、たまに行く料理屋に寄ったら、隣にホテルのコンシェルジェをされてる方がいらっしゃって、めちゃくちゃ大きな花を持ってこられてたんですよ。で、「それ、何に使うんですか?」って聞いたら、「家でお茶やるんで、お茶用に買ってきたんです」って。

「え、お茶やられるんですか?」みたいな感じで話を聞いてたら、これがまた深い話でして。

茶道って、もてなす側の亭主が、客人の背景や状況を考えて、「この人は今どういう気持ちで、何をしたら心地よいと思うだろう」って推察するんだそうです。で、それだけじゃなくて、客人の方も、「亭主は自分をどういう風に迎えようと考えてくれたんだろう」って考える。

つまり、なんていうか、入れ子状というか、重層的というか。相手を思いやって、その思いやりをまた相手が思いやって、みたいな、無限に続く推察の連鎖が起きるんだと。これを茶道では「一座建立(いちざこんりゅう)」とか「主客一体」って呼ぶらしいんですね。

亭主と客が心を合わせて、一体となって、その場を共に創り上げる。一方的にもてなすんじゃなくて、双方向の共同創造。めちゃくちゃいい話だなって思ったわけですよ。

その方も「コンシェルジェの仕事に通じるものがあるんです」って言ってて、なるほどなって。

で、そういえばって思ったんですけど、僕が京都でよく行く飲み屋も、まさにこれなんですよね。主客一体というか、一座建立的というか。

その場に居合わせた客と店主が、お互いに慮りながら、一期一会の場を作っていく感覚があるんです。難しいんだけど、うまくいったときの心地よさが忘れられなくて。もしかしたら、僕が飲み屋好きなのって、こういう場が好きだからなんじゃないかって、昨日気づきました。

茶道って、なんか風流なお金持ちがやる趣味みたいなイメージがあったんですけど、これって実は日常生活に超役立つ、思いやりの実践トレーニングじゃないかって。

冷たい日本社会:共感的関心が低いという研究結果

で、その話を聞いて、真っ先に思い出したのが、最近僕が面白いなーと思っている社会心理学の研究なんです。

名古屋大学の石井敬子先生と一橋大学の鄭少鳳(テイ・ショウホウ)先生のグループの研究なんですけど、これがなかなか衝撃的で。

日本人は、アメリカ人と比べて「共感的関心」、つまり困っている人への同情や思いやりが低い傾向にあるんだそうです。しかも、日本人は困難や精神的苦痛を「社会規範や秩序を逸脱・違反した報い」として理解する傾向があって、それが共感的関心を低くしてる要因の一つだと。

要は、困ってる人を見ても、「それはその人の自業自得でしょ」って思っちゃう傾向があるってことなんですよね。

これ、結構「あー…」って思いません? 日本って「おもてなしの国」とか言われてるのに、実際には困ってる人に冷たいって。

個人主義化したのか、孤立主義化したのか

この研究をはじめ、気になってるのが、日本社会の変化なんです。

日本って、個人主義化はしてきてるのに、一般的信頼は低い。他者をまず信頼して接するという感じではないんですね。で、共感的関心も北米より低い。これ、いったいどういう社会なんだよって思うわけです。

もしかしたら、日本は個人主義化したんじゃなくて、孤立主義化したのかもしれない。あるいは自己中心主義化したのかもしれない。それって、社会として冷たくないか、という問題意識があります。

文化心理学で言うと、日本は「相互協調的自己観」を持つ文化だと言われています。相互協調的自己観においては、自分と他者の境界線が曖昧で、周囲との調和や関係性を重視する自己観のことです。北米などの「相互独立的自己観」(自己と他者が独立した存在)とは対照的なんですね。

本来、こういう相互協調的な文化では、あなたはわたしだし、わたしはあなた、と考えることもできるわけだから、本来、相手に対する慮りや思いやりみたいなものが自然になっても良いんじゃないかと思いませんか?でも実際には、その文化的な基盤が崩れてきてるのに、個人主義文化で見られるような、他者に対する一般的信頼とか共感的関心の高さみたいなものは見られない。

中途半端というか、どっちつかずというか。その結果、ただ冷たくて孤立した社会になってるんじゃないかって思います。

失われた「道」を取り戻す

でも、昨日茶道の話を聞いていて思ったんですけど、実は日本の社会の中には、その処方箋がもう存在してるんじゃないかって思うんですよ。

それが「道」です。

茶道だけじゃなくて、剣道、書道、華道、香道。日本には「〜道」って名前がつく伝統的な行法がたくさんあって、これらすべてに共通する精神がありますね。

「道」っていうのは、元々は道家思想(老子・荘子)や仏教思想の影響を受けた概念で、単なる技術じゃなくて、技を磨くことを通じて、心を磨き、自己と他者との調和を体現する生き方を学ぶ道なんですね。

茶道でいう「主客一体」は、剣道でいう「気剣体一致」に近い。どちらも、相手との一体感、調和、敬意を大切にする。華道も書道も、形を整えることを通じて心を整える。

これって、まさに今の日本社会に必要なものじゃないですか。

問題は、多くの人が「道」に接する機会はあるのに、本来の意味が完全に失われちゃってるってことなんじゃないかと思います。

僕も中学の時、剣道部に入ってたんですけど、「礼に始まり礼に終わる」とか言いながら、実態は体罰があったり、強い奴が仕切る弱肉強食の世界だったりして。相手に対する思いやりなんて全然なくて、すごくもったいなかったなって今でも思います。

形だけ残って心が抜けてる。これが本当にもったいない。

でも、考えようによっては、これってチャンスなんですよね。茶道教室も、剣道の道場も、書道の教室も、日本中にあるわけですよ。インフラは残ってる。あとは、本来の意味を掘り起こして、現代に合った形で再度使えるようにしていくだけ。

まとめ:茶道、やろうかな

というわけで、今日はたまに行く料理屋での偶然の出会いから始まって、日本社会の冷たさの問題、そしてその解決策としての「道」の話まで、歩きながら考えてみました。

個人主義化して孤立していく社会の中で、実は日本には思いやりを実践する具体的な方法がすでにあった。それが茶道であり、剣道であり、他の「道」なんだと。

で、正直に言うと、この記事書きながら、僕、茶道やろうかなって思っちゃいました

冷たい社会を少しでも温かくするために、まず自分から始めてみようかなって。

もしみなさんの中で「私も〜道やってみようかな」とか「昔やってたけど、もう一度やってみようかな」って思った方がいたら、ぜひ記事をSNSでシェアして、コメントで教えてください。

最後まで読んでくださり、ありがとうございます。家に着いたので、今日はこの辺で。また次回の「歩きながら考える」でお会いしましょう!

渡邉 寧

博士(人間・環境学)
代表取締役
シニアファシリテーター

慶応義塾大学文学部/政策・メディア研究科卒業後、ソニー株式会社に入社。7年に渡り国内/海外マーケティングに従事。約3年の英国赴任を経てボストン・コンサルティング・グループに入社。メーカー、公共サービス、金融など、幅広い業界のプロジェクトに4年間従事。2014年に独立。2025年に京都大学大学院人間・環境学研究科にて博士号取得。専門は文化心理学、組織行動。最近の研究テーマはAIの社会実装 × 職場の幸福感 × 文化の違い

メールマガジン登録