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教養はなんのため?SNS時代に考える知識の価値 – 歩きながら考える vol.24

今日のテーマは「教養の価値」について。このシリーズでは、筆者が街を歩きながら、日々の気付きや研究テーマについてのアイデアを語っていきます。ふとしたタイミングで浮かんだアイデアや、知的好奇心をくすぐる話題をラジオ感覚で平日(月~金)の毎朝ラジオ感覚でお届けしています。散歩中のちょっとした思いつきを、ぜひ一緒に味わってみてください。
こんにちは! 今日も家に帰る道すがら、頭に浮かんだことを話してみようと思います。テーマは「教養」。この前、朝日新聞で教養の話を目にして、改めて、なんのための教養?ということを考えさせられました。 そんなことをゆるく話してみます。
子供の頃、「教養がある」ことにめっちゃ憧れた
きっかけは、朝日新聞の記事。桃山学院大学の髙田里惠子さんが「教養主義はどこへ消えた?その正体は男子の「純粋さ」競争だった」という記事を書いてて、めっちゃ面白かったんです。読んでたら、僕が子供の頃に教養に憧れた理由が、なんか見えてきた気がして。
覚えてるのは、中学の頃、筒井康隆の『文学部唯野教授』って小説を読んだこと。大学の文学部が舞台で、半分は教授たちの熾烈かつ馬鹿馬鹿しい学内政治の話、もう半分は唯野教授の文学批評の講義。前半は抱腹絶倒の面白さでしたが、後半の文学批評が、もう、めっちゃ難しかった! 「ポスト構造主義批評」とか、さっぱりわかんなかったけど、「これ知ったらスゴいかも!」ってワクワクしたんですよね。難しい文学理論とか、いろんなこと知ってる大人、カッコいいなって、純粋に憧れてました。
教養=純粋さのマウンティング?
で、髙田さんの記事を読んで「なるほどー」と思ったのが、この、教養への憧れの裏側。100年くらい前の大正時代、教養って「男の子たちがどれだけ純粋か競うゲーム」だったって言うんですよ。
当時、明治までのエリートにとって、知識を付けるということ(教養)は、西欧列強に追いつく為のものであり、立身出世と富国強兵が一致していた。一方で、大正教養主義の時代に入ると、例えば、旧制高校の学生たちは、文学とか美術とか登山とか、受験と関係ないことに熱中して、「俺、頭でっかちじゃないぜ!」という競争をしていた、と。髙田さんはこれを「純粋さの競争」って呼んでて、なんかズバッと刺さりました。確かに、難しい本を読んで「俺、これわかる!」って言うの、ちょっとカッコよく見えるのかもしれないですね。
この話を読んで、自分の子供の頃の教養への憧れって、実は、教養トーナメントで勝ち上がりたい、みたいな、ホフステードが言うところの「男性性」価値観に基づいた欲求だったのではないか、と思ったんですよね。教養そのもののに価値があると思っていたわけではなく、単にトーナメントで勝ち上がりたいという話だったのではないか、ということです。
2025年はフォロワーでバトル?
ここからは僕の考えなんですけど、この手の教養トーナメントって、今はどうなんでしょうか。一部ではそういうトーナメントも残っているのかもしれませんが、今は他にもトーナメントがあって、そちらの方がメインの競争の場になっているようにも思います。例えば、SNSのフォロワー数トーナメント、みたいなもの。
SNSを開くと、「この投稿、10万いいね!」とかバンバン流れてきて、フォロワーが多い人がスゴい!って空気、ありますよね。難しい本を読むより、短い投稿でアテンションを獲得するほうが有能さのしるしと考えられる時代なのかもしれません。昔のおじさんたちが「俺、哲学わかるぜ!」ってやってたのが、今は「俺、フォロワー数凄いぜ!」に変わったのかもしれません。
こういうトーナメントのゲームって、どんどん変わるのだろうと思います。ある領域に絞り込まれてしまうと、若い人は知識量だと上の世代とは勝負しにくい。だったら、ゲーム自体を変えてしまった方が合理的。そう考えると、フォロワー競争も、いつか別のゲームに変わるんだろうと思います。
教養はバズじゃなく、幸せのために
で、ここが一番大事だなって思ったんですけど、教養って、トーナメントにおける「男の子の競争」のためにあるわけじゃないですよね。
つらいこともあるけど、「自分なりに納得できる人生」を作るための教養。「幸福」には、快楽的な要素に着目するもの(へドニア)と、人生の意味や成長のような要素に着目するもの(ユーダイモニア)の2つの流れがありますが、人生の意味や、自分なりの納得感を作る為に、知識が役に立つことがあります。たとえば、友達と本の話で盛り上がったり、仕事で悩んだときに「そういえば、あの本にヒントあったな」って気づいたり。今の時代は、情報が多すぎて頭パンクしそうだけど、「幸せ」に関する自分なりの納得感を作るために、教養が必要な時代なんだと思います。
まとめ:自分だけの教養を見つけよう
歩きながら考えてたら、教養って昔は「トーナメントの道具」だったけど、今は「自分を幸福感に腹落ちするための知恵」なんじゃないかな、って思えてきました。
もし皆さんの中で、「教養って何だと思う?」みたいなアイデアがあったら、ぜひSNSでシェアして教えてください。
というわけで、今日は「教養の未来」を歩きながら考えてみました。子供の頃の憧れから、今日的な位置づけまで、ゆるく話してみたけど、どうだったでしょうか? 最後まで読んでくれて、ありがとうございます。また次回の「歩きながら考える」でお会いしましょう!

渡邉 寧
博士(人間・環境学)
代表取締役
シニアファシリテーター
慶応義塾大学文学部/政策・メディア研究科卒業後、ソニー株式会社に入社。7年に渡り国内/海外マーケティングに従事。約3年の英国赴任を経てボストン・コンサルティング・グループに入社。メーカー、公共サービス、金融など、幅広い業界のプロジェクトに4年間従事。2014年に独立。2025年に京都大学大学院人間・環境学研究科にて博士号取得。専門は文化心理学、組織行動。最近の研究テーマはAIの社会実装 × 職場の幸福感 × 文化の違い