The Culture Factor

お問い合わせ

メールマガジン
登録

BLOGブログ

評価すると失われること|評価と文化の不思議な関係 – 歩きながら考える vol.25

2025.04.17 渡邉 寧
「歩きながら考える」

今日のテーマは「評価と権力格差」の関係について。学校での相対評価をヒントに考えます。このシリーズでは、筆者が街を歩きながら、日々の気付きや研究テーマについてのアイデアを語っていきます。ふとしたタイミングで浮かんだアイデアや、知的好奇心をくすぐる話題を平日(月~金)の毎朝ラジオ感覚でお届けしています。散歩中のちょっとした思いつきを、ぜひ一緒に味わってみてください。

こんにちは。今日はいつものように歩きながら、ゆるく考えたことをシェアしようと思います。最近、頭の中をぐるぐるしてるのが「学校の評価システム」の話。きっかけは、3月25日の朝日新聞の記事で、名古屋のいくつかの中学校で文科省が「絶対評価」の指針を出しているところ、現場の独自のマニュアルでは「相対評価」に近い手法で評価していたという話を目にしたことです。これを読んで、「うーむ、なんか、想像できる・・・」と思ったんですよね。で、そこから「評価って何なんだろう」って考えが広がって、今回はその辺を歩きながらまとめてみました。特に、「評価が権力の仕組みを作ってるんじゃないか」とか「個性を伸ばすのって難しいんじゃないか」っていう視点で、ちょっと深掘りしてみます。

評価する先生=権力になってる?

まず最初に、学校の評価って実は権力の仕組みになってるんじゃないかって話から。

考えてみてください。学校で先生が生徒を評価するって当たり前すぎて誰も疑問に思わないけど、これって冷静にすごい構図ですよね。例えば、内申点で「5」とか「3」とか付けられて、それが高校入試に影響する。で、その数字を決めるのは先生。つまり、先生が生徒の未来にめっちゃ影響を与える立場にいるわけです。

これ、ホフステードの次元に基づいて考えると「権力格差」が高い状況ということになるのではないかと思います。ホフステードの理論だと、権力格差が高い社会って、上に立つ人が下の人に大きな影響力を持つことを、下の人が当然として受け入れている状態を指すんですけど、学校ってまさにそれじゃないですかね?先生が生徒を評価する仕組みがあり、生徒は「先生にどう見られるか」を気にしながら過ごし、それが当たり前だと思われている。

この構造、企業でも一緒ですね。実際、企業でも評価って大事ですよね。人事評価で昇進するか、給料上がるかが決まるけど、その際には客観指標に加えて上司の評価が結構効いてくることがある。あれと同じで、学校でも先生との関係が気になっちゃうわけですよ。でも、これって権力格差が高い文化を子供の頃から自然に受け入れちゃってるってことじゃないですか?

で、名古屋の学校の話に戻ると、文科省は「絶対評価で」って言ってるのに、現場で「学年で何人5にするか決めよう」って相対評価にしてるとのことでした。こうなると、仮に自分が100点取ったとしても、周りも100点ばっかりだったら、違う判断基準が入ってくるということですよね?その判断基準が「日頃の態度」みたいな話だったら最悪です。実際にどういう判断基準なのかはわかりませんが、先生によく見られた方が良いという考えに繋がりそうです。これって、権力構造がさらに強まる感じがしますよね。

個性を伸ばすなんて難しいんじゃない?

で、ここからが、「それは良くないんじゃないかな~」という話なんですけど、この評価システムがある限り、「個性を伸ばす」って難しいんじゃないかって思うんです。

学校ってよく「1人1人の個性を大切にします」って言うじゃないですか。でも、相対評価とか先生の評価がある時点で、それってなかなか実現しないんじゃないかと思います。だって、自分の個性で何らかのパフォーマンスをしたとしても、全体の中のどこの位置なのかという視点で見られるわけですから。さらに、先生は他の子供のパフォーマンスを全部見た上で、相対的に評価をつけてくるのであれば、私の努力とか個性が認められるんじゃなくて、「他の子と比べてどうか(+先生の主観)」で評価が決まるんだな、ということを子どもの頃から意識することになりそうです。

じゃあどうすればいいの?

ここまで考えると、「じゃあ個性を伸ばすにはどうすればいいんだよ」ってなりますよね。私が歩きながら思ったのは、そもそも「先生が評価する」って仕組みを大幅に止めた方がいいんじゃないかって。

例えば、ドイツだと評価がもっとシステム化されてるって話があります。ホフステード指標だと、ドイツは「権力格差」が低くて(指数35)、「不確実性の回避」が高い(指数65)。そうすると、文化的には、「先生が」評価するのではなく、「システムが」評価するのが当たり前ということになります。要は絶対評価ですね。

実際には、ドイツの学校でも、完全に厳密なシステムによる評価というわけではないと思いますが、州や学校で明示的に決まった採点基準を用いて評価を行うことが自然な傾向があるようです(90%以上で「1」とか、80-90%で「2」みたいなもの)基準が外にあるから、生徒も「自分がどこにいるか」が分かりやすい。

もう一つアイデアとしては、アメリカとかイギリスみたいに評価を多様化するのもありかもしれません。アメリカとかイギリスは権力格差が低く、不確実性の回避も低い文化ですね。科目を生徒が自由に選べたり、評価基準が色々あると、「こっちの先生に認められなくても、あっちで頑張ればいい」ってなるから、個性が潰されにくい気がします。

まとめ:学校の評価って何のためにあるんだっけ?

というわけで、歩きながら考えてると、学校の評価って権力の仕組みになってて、個性を伸ばすのって難しいんじゃないかって結論にたどり着きました。相対評価とか先生の判断が大きいシステムだと、子供は「比べ合う」か「先生に合わせる」しか学ばない。

ちなみに同じことは企業にも言えますね。「個人個人がイノベーションを追求しよう!」みたいな方針を掲げているのであれば、自組織の評価制度を見直した方が良いと思います。人が人を評価する仕組みだと、個性を出すことより、評価者に合わせるスキルが育っちゃう気がします。

以上、今日は評価と文化の関係について考えてみました。もし「私の学校時代もそうだった!」とか「いや、個性伸ばせてるよ!」みたいな意見があったら、ぜひSNSでシェアしてコメントください。

最後まで読んでくれてありがとうございます。また次回の「歩きながら考える」で会いましょう!


渡邉 寧

博士(人間・環境学)
代表取締役
シニアファシリテーター

慶応義塾大学文学部/政策・メディア研究科卒業後、ソニー株式会社に入社。7年に渡り国内/海外マーケティングに従事。約3年の英国赴任を経てボストン・コンサルティング・グループに入社。メーカー、公共サービス、金融など、幅広い業界のプロジェクトに4年間従事。2014年に独立。2025年に京都大学大学院人間・環境学研究科にて博士号取得。専門は文化心理学、組織行動。最近の研究テーマはAIの社会実装 × 職場の幸福感 × 文化の違い

メールマガジン登録