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日本国憲法を「心のレンズ」で読む:ホフステードで紐解く平和のメッセージ – 歩きながら考える vol.35

2025.05.02 渡邉 寧
「歩きながら考える」

今日のテーマは、日本国憲法をホフステードモデルで読み解く試みについて。このシリーズでは、筆者が街を歩きながら、日々の気付きや研究テーマについてのアイデアを語っていきます。ふとしたタイミングで浮かんだアイデアや、知的好奇心をくすぐる話題を平日(月~金)の毎朝ラジオ感覚でお届けしています。散歩中のちょっとした思いつきを、ぜひ一緒に味わってみてください。

こんにちは。今日はゴールデンウィークの祝日に挟まれた平日の5月1日です。京都の高瀬川沿いを歩きながら、ちょっと考えごとをシェアしようと思います。いい天気なんで、仕事終わりにビール屋で一杯飲む前に、ちょっと考えたテーマを話したいなと。テーマは、日本国憲法。5月3日の憲法記念日が近いんで、ふと読み直してみたら、ちょっと心に響く部分があって。で、それをホフステードの文化的次元モデルって視点で紐解いてみたら、面白い発見があったんです。2025年の今、憲法を「心のレンズ」で読むと何が見えるか、歩きながら考えてみます。

憲法の前文が、なんでこんなに心に響くんだろう?

きっかけは、憲法の前文、特に第2段落を久々に読んだこと。ちょっと引用しますね。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

ここの部分が、妙に心の琴線に触れるんですよね。何回読んでもそういう感覚があるので、これは何なんだろう、と。

特に、「われらは」って言葉とか、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」ってフレーズ、なんかグッとくるんですよ。あと、「名誉ある地位を占めたいと思ふ」という所がズドンと来る。中高の公民の授業だと、憲法って「暗記するもの」だったから、こんな感情なかったのに。大人になって、テストがないからこそ、自分の関心で読んで、違う感情を味わっています。

ホフステードで「心に響く」理由を考える

で、この「心に響く」感覚を掘り下げたくて、ホフステードの文化次元モデルを使って分析してみました。ホフステードは、オランダの社会心理学者/経営学者で、国の価値観を「権力格差」「個人主義・集団主義」といった6つの次元で説明するモデルを提示した人ですね。ちなみに、日本のスコアは、権力格差が54(アジアでは低め)、個人主義が46(中間だけど集団主義寄り)。これを元に、ちょっと憲法の前文を見てみると、色々と示唆深い。

前文の「専制と隷属、圧迫と偏狭を地上から除去」という表現は、権力の集中を嫌う「低権力格差」の価値観に関係しているように見えます。で、「名誉ある地位を占めたい」って言葉は、個人主義の代表文化であるアメリカの「名誉の文化」を連想させます。リチャード・ニスベットの研究だと、アメリカ南部で「名誉」を重んじる文化が強いことが言われており、僕はこのニュアンスを思い出しました。もしかしたら、日本だとこの「名誉」という言葉は、個人より集団の誇りに結びついているのかもしれません。

戦後民主主義の価値観との共鳴?

憲法学者・木村草太さんの『テレビが報じない憲法の話』(2014年)を読んで、面白いなーと思ったんですが、木村さんは憲法には「3つの顔」があるというんですよね。「最高法規」、「歴史物語の象徴」、そして「外交宣言」としての顔。特に「外交宣言」という見方が面白いなーと思いました。憲法って、読むのは日本人だけとは限らない。外国人が「日本はどういう国なんだ?」と思ったときに、憲法を見るだろう、と。憲法に書いてあることを見て、「なるほど、日本の憲法が言っていることは自分たちに近いな/遠いな」という判断をすることもあるわけです。つまり諸外国へのメッセージでもあると。前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」って、1947年に日本が世界に「自分たちは、国際社会に連帯して平和国家としてやっていくよ!」と宣言した言葉。

そう考えると、僕がこの文章にグッとくるのは、国の内外への宣言である前文に対して、戦後民主主義の中で育った自分の中にある、「個人主義」×「低権力格差」という価値観への憧れと、これまた自分の中にある日本の集団主義の価値観ががミックスされた、自分自身の心の内側が反応してるからかもしれません。

「われら」という主語にも惹かれる

それからもう一つ、前文で自分の心の琴線に触れるのが「われら」という主語の使い方なんですよね。「われらは・・・と決意した」とか「われらは、・・・・・名誉ある地位を占めたいと思ふ」という言い方が妙にグッとくる。

何でなのかなーと考えてみると、これは、可能性は2つあると思っています。一つは、自分の中にある集団主義的な価値観。さっき書いたように、日本はそこまで個人主義の文化ではなく(個人主義スコア=46)、自分の中にもそういう要素があるのは感じます。「われら」という主語が、そうした「集団主義の価値観」に訴えかけるから、というのが可能性の一つ。

もう一つの可能性が、ジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』(1762年)に出てくる「一般意志」という概念との関係。個人の自由を前提に、社会の共通善を追求する感覚を「われらは・・・と決意した」という言い回しに対して感じるから。なんか公共心みたいなものがビビッと響く。これが別の可能性。

まあ、正直どっちなのかは自分でもよくわかりません。ただ、心が動くということは、価値観として何かに共鳴しているのだろうとは思います。

大人になってからの学び直し:憲法を「自分ごと」に

歩きながらこの話をしていて、改めて思ったのは、大人になってからの学び直しの楽しさ。中高の公民って、平和主義とか主権在民とか、テストのために暗記して終わった。でも、テストがない今、ホフステードみたいなレンズで読むと、憲法が「自分ごと」になると思うんですよね。ほぼ半世紀生きて、戦後民主主義の空気の中で育った自分にとって、平和とか名誉とか、公共への意識って、どこかDNAに刻まれてる気がする。そんなことを感じます。

それから、もう一つ。これは言っておかないとならない。

2025年の今、前文で書かれている「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して・・・」という前提が揺らいでいると強く感じます。ロシアのウクライナ侵攻や、トランプ政権以降のアメリカの孤立主義とか見てると、「現代の大国の振る舞いは、日本国憲法が前提とした国際社会とはあまりにもかけ離れている」と残念な気持ちになります。混沌とした国際社会で、日本国憲法の前文は、一つの価値観を明確に表現しており、もはや絶滅危惧種なのではないかと感じます。

まとめ:憲法で自分と世界を考える

というわけで、高瀬川沿いを歩きながら、日本国憲法の前文をホフステードのレンズで読んでみました。心に響くフレーズから、自分の価値観や日本の文化を掘り下げるプロセスでした。2025年の今、平和の理想と現実のギャップを感じつつ、小さな国・日本の憲法が一つのソフトパワーになる可能性も感じます。

ビール屋に着いたんで、今日はこの辺で。最後まで読んでくれて、ありがとうございます! また次回の「歩きながら考える」で会いましょう!

 

参考:日本国憲法前文

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。


渡邉 寧

博士(人間・環境学)
代表取締役
シニアファシリテーター

慶応義塾大学文学部/政策・メディア研究科卒業後、ソニー株式会社に入社。7年に渡り国内/海外マーケティングに従事。約3年の英国赴任を経てボストン・コンサルティング・グループに入社。メーカー、公共サービス、金融など、幅広い業界のプロジェクトに4年間従事。2014年に独立。2025年に京都大学大学院人間・環境学研究科にて博士号取得。専門は文化心理学、組織行動。最近の研究テーマはAIの社会実装 × 職場の幸福感 × 文化の違い

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