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教頭先生の休日出勤から見えてきた、日本の「頑張る人」依存問題 – 歩きながら考える vol.62

今日のテーマは、先生のオーバーワークから考える日本の文化について。このシリーズでは、筆者が街を歩きながら、日々の気付きや研究テーマについてのアイデアを語っていきます。ふとしたタイミングで浮かんだアイデアや、知的好奇心をくすぐる話題をラジオ感覚で平日(月~金)毎日お届けしています。
こんにちは。今日は家に帰りながら、ちょっと気になってることを話そうと思います。今、教職員の幸福に関するプロジェクトに関わっている関係で、色々とニュースを見るのですが、最近、朝日新聞で教職員の幸福度についての記事を見かけて、そこから色々考えちゃったんですよね。歩きながら、ゆるく話してみようと思います。
教頭先生はなぜ休日も働くのか
まず最初に、学校の先生の労働時間がヤバいって話から。文部科学省の令和4年度の調査によると、教員の平日の在校時間は10時間以上。平均で10時間学校に居るのはちょっと長いな、と思うんですが、これに加えて土日も登校していて、平均でも1~2時間は学校に居る。更に、「持ち帰り」業務はここには入っていないので、確かにちょっと学校の先生の業務時間は長すぎるようです。
で、何が問題かっていうと、もちろん授業等の学校内業務の話もあるわけですが、それ以外にも業務時間増の要因が多岐に渡っていることも問題のようです。例えば、朝日新聞の記事で解説されていましたが、地域のイベントに先生が呼ばれちゃうっていう。また、学校の体育館を休日に市民が使うときに、施設管理を先生がやらなきゃいけないというような話もあるようです。でも、一般の先生に休日出てきてもらうわけにもいかないから、結局、教頭先生がやることになる。
学校の先生、特に管理職って、地域の代表者の一人として、お祭りとか行事に顔を出すのが当たり前みたいな感覚があるのかもしれません。でも問題は、その役割に見合った人員配置や報酬が設定されていないってことなんじゃないかと思います。
日本の組織あるある「できる人」に仕事が集中する問題
学校の先生がオーバーワークになっているこの構造、実は学校だけじゃなく、日本の組織でよく見る光景だと思いません?
一部の日本企業の課長さんとか、まさにそう。組織のことを一番よく知ってて、人間関係もわかってて、現場のこともわかる。ネットワークがあって、立ち回りが効く。そういう人に、どんどん仕事が集まっちゃう。でも、みんなその人に助けられてるはずなのに、その人の業務全体像を踏まえた時に持続可能なのかどうかはあんまり考慮されていない。更に、それに見合った対価も支払われていない。
なぜ日本では「自分がやらなきゃ」と思っちゃうのか
ここで考えたいのが、なぜ日本でこういうことが起きるのかということ。
オランダの経営学者・社会心理学者であるヘールト・ホフステードの研究で言えば、日本は若干集団主義的な文化ということになります。文化心理学の概念で言えば相互協調的な文化で、北米などの相互独立的な文化とは対比されます。つまり、周囲との調和や、自分の役割を果たすことが重視される。自分個人のやりたいこととか意見はもちろんあるんだけど、それよりも集団の目標が優先される。
学校で言えば、「子どもの幸福や成長を支援するため」という大きな目標がある。だから先生たちは、子どもたちが学べているか、幸せか、うまくやっているかということを優先的に考える。場合によっては、子供の幸福や成長を支援出来ていれば、自分は幸福と考えるのが自然という意識になっているのかもしれません。
会社でも同じで、組織の目標がある中で、たとえ自分に仕事が集中したとしても、それによって組織全体が良い成果を出せるのであれば、それを果たすのが自分の役割だと考える。結果として自分の健康やプライベートが犠牲になったとしても、それは仕方のないことだと受け入れる感覚が、もしかしたらあるかもしれません。
しかも、それを完璧にこなさなければ、と思う。ホフステードの研究によると、日本は「男性性」が高くて、「不確実性の回避」も高い。これ、何を意味するかっていうと、高い目標を達成することを重視して、かつ決まったやり方で完璧にこなすことが当たり前だと思われてる文化的な傾向があるということです。「ちゃんとやらなきゃ」「完璧じゃなきゃ」みたいな。これがさらに業務量の負担増に結びついているかもしれません。
意図せずフリーライドが生まれる構造
ここで大切だと思うのが、この状況に対して周囲の人が何を思うのか、ということ。
一橋大学の鄭 少鳳先生と名古屋大学の石井敬子先生のグループの研究を見ていて、「さもありなん」と思ったのですが、日本人はアメリカ人と比較して「共感的関心」(困っている人への同情や思いやり)が低い傾向にあるんだそうです。日本人は困難や精神的苦痛を「社会規範や秩序を逸脱・違反した報い」として理解する傾向があり、これが共感的関心を低くしている要因の一つとのこと。
このことが、職場のオーバーワークの問題を深刻なものにしているのではなかろうか、と感じます。
一部の人は、集団の中で期待される役割を果たそうとして、自分がオーバーワークになったとしても頑張る。集団主義・相互協調的文化において、周囲の他者からどう評価されるかは非常に気になる点だから、その役割を果たさないことで批判されることを避けようとする。
一方で、その周囲にいる人たちは、共感的関心が低いため、そういう抱え込んでいる人たちがどれくらい辛いのか、今メンタルの問題がどれくらい来てしまっているのかということにはあまり気づかずに、支援の手も差し出さない。そもそも仕事を抱えちゃっている本人が「助けてください」とは言わない(言えない)ので、なおさら対策が遅れる。
別に「あの人にやらせとけばいいや」って思ってるわけじゃない。でも結果として、意図せずフリーライド(タダ乗り)が発生しているということなのではないかと思います。
組織から変える、行動から変える
じゃあ、どうすればいいのか。
「みんながもっと思いやりを持てばいい」って言うのは簡単だけど、それじゃ問題は解決しないだろうと思います。日本の文化的特徴である、他者からの評価を意識しやすいが共感的関心は低いという心の状態に介入するのは、なかなか難しいかもしれません。
でも、組織のレベルでできることはあると思うんです。
まず、権威やリーダーが明確に価値観の方向づけをすること。「困った人を助けることが重要だ」って、トップがはっきり言う。そして、何らかの形でそうした他者への共感的行動にインセンティブをつける。なぜなら、組織としてはそういう行動が大切だから。
例えば、誰かが過重労働になってることに気づいて、仕事を分担したり、サポートを申し出たりする行為にはスポットライトを当てて、ポジティブに評価する。日本人は他者からの評価を意識するのであれば、その特性を活かして、「助け合うことが評価される」方向にインセンティブ設計をする。
これは国の政策にも同じことが言えて、本当は権威である政治が、一部の個人的頑張りにフリーライドすることは許さず、そういう重要な役割を果たしている個人に支援する政策にはポジティブなインセンティブを付けるということを行っていくことが必要だと思います。共感的関心が低い、ということが日本全般で見られる特徴であるとすると、例えば先生のオーバーワークを何とかするべきだと言う世論が喚起されることは期待しにくいので、ここは政治のリーダーシップが必要になると思います。
まとめ:個人の頑張りに頼らない社会へ
というわけで、今日は学校の先生のオーバーワークから始まって、日本社会の構造的な問題まで考えてみました。周囲の期待や集団の中での役割を果たさなければならぬと感じて、それに応えようとする個人に過度に依存する傾向。これ、日本の文化の中に深く根ざしているのかもしれません。
でも、問題は意識だけじゃなくて、構造にもある。他者からの評価は意識するのに共感的関心は低いという日本人の特性を踏まえた上で、組織的な仕組みを変えていくことが大切なんじゃないかと思っています。
もしこの記事を読んで「うちの職場もそうだな」とか「こんな解決策があるんじゃない?」って思った方がいたら、ぜひSNSでシェアして、コメントで教えてください。みんなで知恵を出し合って、少しずつでも変えていけたらいいなと思います。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。家に着いたので、今日はこの辺で。また次回の「歩きながら考える」でお会いしましょう!

渡邉 寧
博士(人間・環境学)
代表取締役
シニアファシリテーター
慶応義塾大学文学部/政策・メディア研究科卒業後、ソニー株式会社に入社。7年に渡り国内/海外マーケティングに従事。約3年の英国赴任を経てボストン・コンサルティング・グループに入社。メーカー、公共サービス、金融など、幅広い業界のプロジェクトに4年間従事。2014年に独立。2025年に京都大学大学院人間・環境学研究科にて博士号取得。専門は文化心理学、組織行動。最近の研究テーマはAIの社会実装 × 職場の幸福感 × 文化の違い