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今回は、日本の「論破」と呼ばれる現象について。このシリーズでは、筆者が街を歩きながら、日々の気付きや研究テーマについてのアイデアを語っていきます。ふとしたタイミングで浮かんだアイデアや、知的好奇心をくすぐる話題をラジオ感覚で平日(月~金)毎日お届けしています。
こんにちは。今日は家に帰りながら、ちょっと気になってることを話そうと思います。参議院選挙中で、テレビやネットで候補者の討論を見る機会が増えてきましたよね。それを見ていて、日本の討論のあり方について思うところがあったので、歩きながらゆるく話してみようと思います。
ハンガリーの対話イベントと「論破文化」への警鐘
きっかけは、2025年7月4日の日経新聞の記事「論破文化もうやめよう 真の豊かさは権威主義では生まれない」でした。
記事によると、ハンガリーで若者たち約80人が集まって対話イベントを開いたそうです。ハンガリーって、2010年からオルバーン首相の権威主義的な政権下にあって、国営メディアでプロパガンダしたり、選挙制度を操作したりしていると言われています。そんな中で、若者たちが自由でフラットな対話の場を作ったことがニュースになったわけです。
この「対話」と対比的に記事で議論されていたのが「論破」です。
記事によると、ノルウェー・オスロのノーベル平和センターは21年に対話の「8原則」を提唱したそうです。「対話を大切にする」「安全な場をつくる」「耳を傾けよう」といった項目が並ぶとのこと。
シェルスティ・フログスタ所長は「相手を打ち負かす『論破』文化では、特に若い人が意見を言うことを恐れてしまう。これは民主主義を脅かす」と危惧しているそうです。
この「論破」って言葉、日本でもめちゃくちゃ聞きますよね? 過去10年くらい、YouTubeやテレビで「〇〇を論破!」みたいなタイトル、よく見かけます。でも改めて考えてみると、この「論破」ってどういう基準で何のためになされているんでしょうか。
ディベートという競技:そもそも何を競うものなのか
論破の話は、もともとはディベートを念頭に置いた話なのだろうと思います。
ディベートっていうのは、ある命題に対して肯定側と否定側が議論をぶつけ合って、聴衆を説得する競技です。例えば「死刑制度は廃止すべきか」みたいなテーマで、YES側とNO側に分かれて議論する。
これ、ホフステードの文化次元に基づくと、アメリカやイギリスなど、アングロサクソン中心の「コンテスト文化圏」の有力なコミュニケーションフォーマットなんです。強い個人(または団体)の主張と主張をぶつけ合わせることで価値を生んでいこうという考え方が根底にあります。
で、ここで大事なのは、何をもって「強い」とするか。
コンテスト文化圏のディベートにおいては、それは「議論の強さ」なんです。明確な主張があるか、明確な根拠があるか、それをサポートする証拠が揃っているか。これが「強さ」の基準になり、より「強い」議論がより説得的であるという前提が置かれている。
なぜわざわざディベートが定義されているのか
でも、そもそも、なんでこんなコミュニケーションフォーマットを作る必要があったんでしょう?
ここで思い出したいのが、道徳心理学者のジョナサン・ハイトの「象と象使い」のメタファーです。
人間の心って、巨大な象(感情)の上に小さな象使い(理性)が乗っているようなもの。象使いは一生懸命コントロールしようとするけど、象が本気で動き出したら、もう止められない。つまり、人間って基本的に感情で動くわけです。
だからこそ、わざわざ「ディベート」という特殊なコミュニケーションフォーマットを作る必要があったのではないでしょうか。
人間の本性としては、パトス(感情)で動いてしまう。でも、あえてロゴス(論理)を中心にして強さを決めていくというルールを作った。感情じゃなくて、論理で勝負しましょうって。そうすることでよりよい社会を作ることが出来るようになるから。それがディベートの本質なのではないでしょうか。
日本の「論破」は全然違うものになっているのでは?
さて、日本の場合はどうでしょうか。
日本の「論破」を見ていると、議論の中身とか質の高さで勝敗が決まっているようには見えません。どちらかというと「論破した/された」という人物に対する印象になっているように思います。聴衆の評価の対象は「人」であって「議論」ではない。そして、論理ではなく感情的な要素が大きな要因となっている。
この傾向、実は今に始まったことじゃないんですよね。
「朝まで生テレビ!」のような番組、昔から見てきましたけど、テレビの討論番組で議論が深まっていくような印象はあまりないですね。 より説得的な議論が評価されるというよりは、誰がその場を支配したかというような人物評価を行う場に見えてしまいます。
言うなれば、ボクシングの試合を見てるような感じ。どっちが勝った、負けたっていうエンターテインメント。より質の高い議論を形成したり、怪しげな議論を排除したりということを目的にしているわけでは、必ずしもないのかもしれません。
もちろん、出演者の中にはきちんとロジックを詰めていったり、根拠を確認したり、事実の正確さを追求する人もいます。
でも、やはり観ている側の問題が大きいように思います。討論の内容を吟味するというよりは、細かな事実を詰められて瞬間的に答えに詰まってしまったとか、そういう「印象」の部分に大きく影響されてしまい、勝ち負けを決めちゃってる。
これはハイトが言うように、人間のもともとの特徴だから、ある程度はしょうがない。でも、少なくとも番組を作る側は気をつけるべきなんだろうと思います。
ビジネスとしてエンターテインメント要素が必要なのは分かります。でも、基本的にはその場を作ることで議論が深まったり、より良い議論が残っていくような、そういう方向を目指してほしい。
そして、出演する側も。大声で相手をなじったり、話を遮ったり、嘘をついたり、異常に細かい話を大量に出して議論を混乱させたり。そういった「印象操作」で勝利を得ようとするのは、プレイヤーとして恥ずかしいことだという評価になるような場であってほしいと思います。
参議院選挙の討論を見ていても、同じような傾向を感じるんですよね。候補者たちは、印象操作で負けるわけは行かないので、建設的な議論よりも、勝っているような印象を残すことに躍起になっているように見えます。これって、社会にとって本当に健全なことなんでしょうか?
まとめ
というわけで、今日は参院選の討論番組を見て感じた、日本の「論破文化」について歩きながら考えてみました。もしこの話について何か思うところがあったら、ぜひSNSでシェアして、コメントで教えてください。みなさんは、日本の討論番組や政治家の議論の仕方について、どう感じていますか?
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。家に着いたので、今日はこの辺で。また次回の「歩きながら考える」でお会いしましょう!

渡邉 寧
博士(人間・環境学)
代表取締役
シニアファシリテーター
慶応義塾大学文学部/政策・メディア研究科卒業後、ソニー株式会社に入社。7年に渡り国内/海外マーケティングに従事。約3年の英国赴任を経てボストン・コンサルティング・グループに入社。メーカー、公共サービス、金融など、幅広い業界のプロジェクトに4年間従事。2014年に独立。2025年に京都大学大学院人間・環境学研究科にて博士号取得。専門は文化心理学、組織行動。最近の研究テーマはAIの社会実装 × 職場の幸福感 × 文化の違い