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「イチロー」とはなんだったのか?

2019.03.24 渡辺 寧

イチローが引退した

マリナーズのイチロー外野手が現役引退を発表しました。

会見の書き起こしを読み、「うわ、これは凄い」と思い、別件の仕事をしなければならなかったんですが、会見の映像を探して最初から最後まで80分観てしまいました。

一言で言って感動。

ゆっくりと選びながら語られる言葉の中に、彼なりの信念が見え隠れしていて、そこに強く共感をしました。個人的には、プロフェッショナルとして積み上げる姿勢を最後の最後まで崩さなかったことに最大限のリスペクト。それがまざまざと分かる語りに言いようの無い感動を感じました。

「久しぶりに良い会見を観た」そんな感想を持ったイチローの引退会見でした。

イチロー批判が許されない気配

個人としては心揺さぶられる会見だったのですが、同時に、イチローの引退会見に関する世の中の反応を見ていると、「なんだろ、これ?」と思うものがあることにも気づきました。

最初のきっかけはTwitterで流れてきたコメントで、趣旨は「イチローの業績は否定しないが、06年のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の際にイチローが韓国・台湾チームに対して挑発的な発言をしたことは評価できない」というもの

見た瞬間の私個人の感覚は「うおっ!このタイミングでそれを言う必要ある?」というものでした。

確かに、06年のWBCの直前に、日本代表チームにいたイチローは「勝つことだけに満足するのではなく、試合を見守っている日本のファンにすごい試合だったと感じさせたい。これから30年間は日本に勝てないことを思い知らせたい」と発言し、これを自国チームに対する挑発と受け取った韓国ではイチローはことあるごとに韓国人の方々の非難と揶揄を浴びてきたそうです。(「韓国人がイチローの凄さを認め始めた」COURRIER JAPON 2015.10.3 Kim Joon)

しかし、この引退会見のタイミングで、、、イチローの成し遂げたことを皆で称えようというこの状況の中で、、、13年前のその話を持ち出す必要あるのかなーというのが瞬間的に自分の中に上がってきた感想で、何やら水を差されたような感じがしました。

と同時に、この手の「瞬間的に自分の中に沸き起こってくる感情」のことを私は脊髄反射と呼んでいて、脊髄反射が起こった時には、私は必ず一歩引いて冷静に自分と周囲を観察することにしています。

イチローに対する敬意は揺らがないんだけれど、なぜ自分がイチローに敬意を感じるのか。そして、このタイミングでのイチロー批判が、許されないことのように感じるのはなぜなのか、そんなことを文化という一歩引いた視点から考えてみました。

イチローの何にそれほど惹かれるのか?

今回のイチローの引退会見については、マリナーズの地元シアトルでも報道されていますが、現地の論調を見てみると、日本のそれとはちょっと異なることに気付きます。

シアトル・タイムズのラリー・ストーンは、日本について

日本という、理解を超えて彼(イチロー)を崇め敬う国
(Japan, a country that reveres him beyond comprehension)

と書き、

ケン・グリフィー・Jr同様、イチローは時々、彼の名声が、特に母国(日本)において不釣り合いな状態になっており、息苦しいと思っていた。そのため、米国では比較的匿名の存在で居られることに、喜びを感じていた
(Like Griffey, Ichiro at times found his fame, particularly in his homeland, to be out of proportion and stifling, which is why he took such delight in the relative anonymity he was afforded in the U.S.)

と書いています。
(出所 “Ichiro, always a master of timing, gets it right again with his retirement” The Seattle Times 21st/Mar Larry Stone

このことは、今回の引退会見でもイチローが、

カタカナの「イチロー」ってどうなんですかねぇ

(出所 HUFFPOST

と言っている所にも見え隠れしているように思います。

恐らく、私(達)が認識し尊敬している「イチロー」は、イチロー本人とは遊離したものなんだろうと思います。

では、私(達)が認識し尊敬している「イチロー」はどんな人なのかというと、子供のころからお父さんと二人三脚で、365日中360日は練習に打ち込み、プロになってからも自分のルーチンを欠かさず積み重ね、ブレない目標に向かって一歩一歩歩み続け、MLBという世界最高の舞台前人未到の記録を達成し、日米球界を代表する選手の一人となった「イチロー」なのだろうと思います。

個人的には、

結果を残すために自分なりに重ねてきたこと、人よりも頑張ったということは全く言えないけど、自分なりに頑張ってきたということははっきりと言えるので

自分に限界を生みながら、ちょっとそれを超えていく。そうするといつの間にかこんな自分になっていくんだ、となっていく。少しずつの積み重ねが…。それでしか、自分自身を超えていけないのではないかと思います

(出典 HUFFPOST)

といった発言には畏敬の念を感じますし、それは多くの人にとっても同様の感覚を抱かせるのではないかと思います。

「イチロー」は日本文化の古層そのもの

「イチロー」について分析的な言説を展開するのは、ちょっと野暮な気もするのですが、1つの見方ということでご容赦頂き、国民文化の観点から「イチロー」の在り方を見ると、私には「イチロー」は日本文化の古層の1つそのものであるように感じられます。

(出所 Hofstede Insights Group)

上記は、ホフステードの6次元モデルの日本文化スコアですが、日本文化は、

①長期志向で(Long Term Orientation=88)
②人生の楽しみ方が低く(Indulgence=42)
③不確実性の回避が高く(Uncertainty Avoidance=92)
④男性性が高い(Masculinity=95)

という特徴を持っています。これをより分かりやすい言葉に翻訳すると、日本文化は

長期的な結果の為に、
真面目さ厳格さを保ち、
決められたルーティーン原則にそって練習・実践し、
高みを目指して頑張り、それを成し遂げる

ということに価値を置く文化ということになります。

私が思いますに、この①~④で示された日本文化の価値観は私(達)が知っているイチローが示してきた行動そのものではないでしょうか。

ホフステードは国民文化をメンタルプログラミングと呼び、それは無意識下にあって行動に影響を与えると述べました。

日本人が共通して持っている価値観(文化)に基づいた行動を高いレベルで実施し、それが世界に通用する。通用するどころか世界のトップにだって行けるということを身をもって示したのがイチローで、だからこそ私(達)はイチローの言説に対して共振するのだと思います。

また、これが日本文化の価値観に根差しているがゆえに、「イチロー」に対する批判は私(達)の価値観に対するチャレンジであり、よって嫌悪感さえも感じてしまう。

時代は変わり、テクノロジーは変わり、社会の見た目は変わりますが、その背後にある価値観はそう簡単には変わりません。「イチロー」は日本文化の再生産のアイコンであり、彼が成し遂げてきたことは多くの人の目に焼き付きました。彼が残したDNAは若い世代の中に伝播し、野球内外で様々な形で日本文化の価値観を再生産していくことになると思います。

鈴木一郎さんに興味がある

今回の引退で、「イチロー」という役目に一旦区切りをつけたイチローですが、私個人としては「イチロー」ではないイチロー、つまり鈴木一郎さんの今後に興味があります。

「イチロー」は日本文化の古層そのものなので、鈴木一郎さんは子供の時にそれをDNAとして受け継ぎ、キャリアの中で開花させ、もう十分に次の世代に引き継いだと思います。だから、今の「イチロー」はもう良いんじゃないかと思う。

それよりも、彼の引退会見で、私が一番ハッとしたのは最後の「締まったね~」という直前に語っていたこと。ちょっと長いですが引用すると、

アメリカに来て、メジャーリーグに来て、外国人になったこと。
アメリカでは僕は外国人ですが。このことは…外国人になったことで、人の心を慮ったり、人の痛みを想像したり、今までなかった自分が現れてきましたね。
この体験というのは…本を読んだり、情報を取ることはできたりしたとしても、体験しないと自分の中からは生まれないので。
孤独を感じて苦しんだことは、多々ありました。ありましたけど、その体験は、未来の自分にとって大きな支えになるんだろうと、今は思います。
だから、辛いこと、しんどいことから逃げたいと思うのは当然のことなんですけど、でも、エネルギーのある元気な時にそれに立ち向かっていく。そのことは、すごく人として重要なことなんじゃないかなって感じています

(出所 HUFFPOST)

私は、人が成長する上で自己の健全な相対化をすることがとても大切だと思っています。

自分の性格や文化に根差した「ものの捉え方や考え方」は自分にとっては100%リアリティがあるもので、正しいと思ってしまう。しかし、他者との関係性の中で考えると、自分「だけ」が100%正しいことなど、それこと100%あり得ない

そのことに気付いて、自己を超えていくことが人の成長にとってはとても大切だと思っています。その大きなきっかけになるのが、マジョリティからマイノリティへ立場が変わること。そういう経験をしている人は、マジョリティに戻ったとしても、自分が意識出来る外側にまだ世界があるということを想像できるし、マイノリティも含めて「私達」と考えることが出来る。

イチローが最後に語っていることは、私にはそういうことに聞こえました。

イチローは並大抵ではないプロフェッショナリズムで実績を作り上げた強者だと思います。あそこまで行ける人は本当に一握り中の一握り。

そのような強者にとって、そしてこれはそのような強者に本当に良く見るパターンなのだけれど、自分を除くほとんどすべての人が、それぞれが世の中で自分が果たすべき役割を果たしていない弱者に見えてしまうかもしれない。プロスポーツを離れた文脈で、どのようにそうした他者と関係性を結んでいくのか。ご本人は絶対に無いと言っていましたが、指導的立場に立つとしたらどのような指導者になっていくのか。

個人的には指導者の道にチャレンジするイチローを見たいと思います。それはご本人にとって全く違うチャレンジなのだろうと思うけれど(自分のチームのほとんどの選手が、果たすべき役割を果たさないプロ失格者に見えるんじゃないかと思います)、その類まれなプロフェッショナリズムは指導者という立場でどう進化するのか。そんなことに期待してしまうのです。


渡辺 寧

代表取締役
シニアファシリテーター

慶応義塾大学文学部/政策・メディア研究科卒業後、ソニー株式会社に入社。7年に渡り国内/海外マーケティングに従事。約3年の英国赴任を経てボストン・コンサルティング・グループに入社。メーカー、公共サービス、金融など、幅広い業界のプロジェクトに4年間従事。2014年に独立。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程在籍。プライベートではアシュタンガヨガに取り組み、ヨガインストラクターでもある。

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