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文化の観点で小説を読んでみる
小説の楽しみ方/捉え方は人それぞれだと思いますが、一つの小説の楽しみ方として、「文化の観点から小説を読み解く」というものがあります。
今月は、角田光代さんの作品をまとめて5冊ほど読んだので、そのご紹介をしたいと思います。
角田さんの作品は、出てくる登場人物が心の微妙な揺れ動きを常に経験していて、その有り様がきめ細かく描かれています。こういう心の揺れって、人の内面のとても個人的なことなので、言葉にして伝えるのは簡単ではないと思います。どの作品を読んでも、それぞれ違う心の動きが見えるところが角田さんの作品の面白いと思うところ。
対岸の彼女
一冊目は「対岸の彼女」。直木賞受賞作で、ドラマ化・映画化もされました。
日本では、「自分」とは人と人との関わりの中にあるものという捉えられ方がされます(相互協調的自己観)。そのため、良くも悪くも自分の人生には常に他者との関係性がついてまわります。
人と人との関係性は素晴らしいものになることもあるし、厄介で難しいものになることもある。この作品は、そうした人間関係の酸いも甘いも含めて、個人と個人の関係を非常に高いレベルでリアリティをもって表現している小説だと思いました。
個人と個人の関係の中には、各々の生まれ持った性格のぶつかり合いもあるし、其々の精神的な発達度合いのズレもある。また、学校や家庭などの環境側の状況も関係性に影響してくるし、ジェンダー認識などの歴史的に変化している世の中の流れも関係性に影響をしてくる。
そういう要素を全部盛り込んだ上で、登場人物の視点を入れ替えながら話が進んでいくのが素晴らしかった。立体感のある描写だなと思いました。
とても良かった。
空中庭園
二冊目は「空中庭園」
「うちの家族には隠し事は無い」と明言する家族の紹介から話が始まります。その家族4人+おばあちゃん+家庭教師の合計6人の一人一人の心象風景で出来ているオムニバス小説。
「隠し事は無い」という始まりだったのですが、その家族(+α)一人一人の視点で小説が語れていくと、すぐに、「隠し事は無い」どころの話ではなくて、家族においてもお互いに見えていないことが大半であることがわかっていきます。
個人的には、前半の章のお父さんの「クズっぷり」が気持ち悪すぎて、一瞬読むのを止めようかとも思ったのですが、それも含めて自分にとっては感じるところのある作品でした。
集団主義においては、「内集団」は凝集性を持つのが一般的で、その内集団のコアに血縁で繋がった家族があることがよく見られます。しかし、ここで描かれている家族は、そういう強くつながった内集団というわけではなさそうです。
おそらく、もっと昔の集団主義の社会だと、内集団内で相互に共有されていないことというのは、今よりももっと少なかったのだろうと思います。隠し事がお互いに無いことによる良い面というのも有ったのかもしれませんが、同時に、そういう生活の仕方の窮屈さもあったのだろうと思います。
そういう状況の中で、時代が変わってきた。
日本は、おそらく戦後から数十年くらいかけて、家族が内集団として機能しなくなっていったのだと思います。他のアジア諸国は、日本よりも血縁の繋がりが強く見えますが、例えば、中国や韓国やその他のアジア諸国で家族の在り方がどのように変化しているのかということは、大変興味深いところ。
坂の途中の家
三冊目は「坂の途中の家」
乳幼児虐待事件の陪審員に選ばれてしまった、自らも娘の子育てに難しさを感じる主人公里沙子のストーリー。
日本は文化的に男性性が高く、子育ては女性の仕事と社会的に理解されている傾向がまだ強く残っているように思います。一方で、核家族化、個人主義化の社会の大きな流れの中で、個人が孤立することがあります。それが子育てをする母親に起こった場合に、母親の心象風景はどんなものなのか、それを読ませてもらったように思っています。
移動の自由、職業選択の自由、結婚の自由、友達作りの自由。色々な自由が増えること、それ自体は個人的には素晴らしいことだと思う一方で、他者との新しい関係性を作ることが難しいことがあります。そうした場合、個人は孤立してしまい、気づかないうちにメンタルがしんどいと感じる状況になるのはとても良くわかる。
読んでて正直しんどかったのですが、良い作品だと思いました。
ツリーハウス
四冊目は「ツリーハウス」
第二次世界大戦での満州、戦後の復興期、高度経済成長期、そして今、と先の大戦から今に至る社会の流れを、東京の「翡翠飯店」を結節点として、家族3代の視線で描いていく作品。
他の本もそうなのですが、角田さんは個人の目線とその個人の心の内面を丁寧に語ることで、社会の有り様を立体的に見せてくれる作家さんだと思います。
「戦後史」みたいな大きな歴史の語りは、因果関係の流れとして辻褄が合うように編集された上で語られます。一方で、その歴史の中には、その当時の社会を生きた個人が居るわけで、個人の内面は大きな歴史の語りとは緩く繋がりつつも、それ自体は明確で個人的な体験として存在している。
「逃げる」ということが、この作品のテーマの一つとして提示されますが、個人的には「逃げる」中でも色々なものを「引き受けて」生きていく個人というものを見せて貰ったように思っています。
八日目の蝉
五冊目は「八日目の蝉」
正直、話の内容はしんどいんですが、今月読んだ角田光代さんの5冊の中では、一二を争う面白さを感じた一冊でした。
赤子誘拐の作品で、必ずしもハッピーな話ではないストーリーに面白さを感じるって、変な話だとは思いますが、兎にも角にも面白かった。
他の作品に関しても同じことを思うのですが、角田光代さんの作品は、人と人との関係性をいつもとは違った視点で捉えるきっかけになる本だなと思います。
人と人の関係性は、血縁・地縁・社縁・市場縁と、いくつかのパターンに類型化出来ます。昔は血縁と地縁が中心だったけど、高度経済成長期に人口が都市部に移動する中で次第に社縁が増していきました。最近は社縁も怪しくて、市場縁、つまりマーケットを介した関係性の重みが増しています。
個人的には、流動性の高い人間関係の方が好ましいと思うのだけれど、それによって関係性が薄くなってしまうのは好ましくないとも思っています。だから、個人的には、「高い流動性を保ちつつ、濃い人間関係を築くには何が必要なのか?」という問いの答えに興味があります。
「八日目の蝉」は赤子誘拐犯の話で、女性と子供の関係は、定義上、血縁ではありません。しかし、誘拐犯である希和子が逃亡中に構築していく人との関係は、このニセ血縁を中心に作られていき、結構な強さになっていきます。
一つの見方としては、まさにこれは「高い流動性にも関わらず、濃い人間関係」という状態で、なんとも奇妙な話に見えるわけです。
小説の中の人間関係がどうしてこういう状態になるかというと、やはりそこには誘拐された子供である恵理菜(薫)の存在があるように思います。子供であり、母親(偽の)しかおらず、家が無い、弱い存在を、集団の中に包摂して助けようという無意識の働きが周囲の人々の心の中に起こったのではないかと思うわけです。
「八日目の蝉」の奇妙な人間模様を見ていて、個人が強くなればなるほど、他者との関係性を結ぶことは難しくなるのではないか、ということを思いました。
人の集団というのは「弱さ」を接着点として形成されていて、よって弱さが見えにくくなる強い個人は他者との関係性づくりが難しくなる。それが人が遺伝子レベルで持っている集団形成のメカニズムなのではないか。そんなことを思いました。
渡辺 寧
代表取締役
シニアファシリテーター
慶応義塾大学文学部/政策・メディア研究科卒業後、ソニー株式会社に入社。7年に渡り国内/海外マーケティングに従事。約3年の英国赴任を経てボストン・コンサルティング・グループに入社。メーカー、公共サービス、金融など、幅広い業界のプロジェクトに4年間従事。2014年に独立。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程在籍。プライベートではアシュタンガヨガに取り組み、ヨガインストラクターでもある。